徳川家の譜代大名、井伊家の十四男として生まれた直弼は、36歳で井伊家彦根藩主となるまで、わずかな捨扶持を与えられて不遇の時代を過ごしました。
不遇時代に、兵学、国学といった学問に精通するようになっていました。
彦根藩主となった直弼は、藩政改革に手腕を発揮し、幕政にも参画しました。
ペリー来航による、江戸湾の防備で活躍し、開国論を展開していきます。
水戸藩の徳川斉昭を中心とする、攘夷論派と激しく対立するなか、将軍の後継問題でも対立いていきます。
1858(安政5)年、大老に就任した、直弼は、将軍継承問題と日米修好条約という2つの難問にとりくみます。
アメリカの軍艦が下田に入港し、英仏連合艦隊が来航の可能性を示すなど、諸外国が幕府を威嚇するにおよんで、1858年6月19日、日米修好通商条約が締結されました。
日米修好通商条約は、領事裁判権など不平等なものだったが、世界諸国からの対外的孤立主義は、許されない国際情勢であり、その後、英、仏、露、蘭と続けて同様な条約を結ぶことになりました。
直弼は、日米修好通商条約締結から、6日後に将軍に徳川家茂をする決定を発表し、水戸の徳川斉昭を代表とする、攘夷論、将軍一橋慶喜推薦派を一掃しました。
この事は、攘夷論派の反幕府機運を強めることとなり、全国の志士活動が盛んになることになりました。
幕府転覆への活動とみた直弼は、断固処罰を決定し、徳川斉昭、岩瀬忠震など幕臣だけではなく、志士や公家なども大弾圧を行いました。
死罪や切腹などに処せられた者は、100名を越えたとされています。 安政の大獄と言われているものです。
安政の大獄は、弾圧を受けた攘夷論者による、倒幕運動に向かう要因になりました。
1860(安政7)年3月3日朝、直弼は、登城の途中江戸城桜田門付近で、尊攘派志士の襲撃を受けて首を打ち落とされました。
*****************
おすすめブログ
神話の時代から維新まで、日本の歴史上に大きな影響を与えた人々100選
語り部さるたのおすすめサイト
*****************