真田信繁(真田幸村)(さなだゆきむら)さなだのぶしげ 1567~1615年 享年49
真田幸村は、安土桃山時代の武将ですが、幸村
の名は、後の江戸時代に講談本に登場 した名前で、実在の人物としては、真田信繁といいました。
甲斐国の武田家の家臣だった真田家は、武田家が滅亡すると織田家に恭順します。
その後の政変に蹂躙され、北条から徳川そして上杉と渡り最終的には、豊臣秀吉の傘下にはいり、信繁は秀吉のもとに人質として送られて成人します。
秀吉没後、関が原の合戦では、真田家は、父昌幸と信繁が西軍に兄信之が東軍にと分かれて戦うことになります、弱小武家としては、家名を残すための苦肉の手段だったのでしょう。
父昌幸と信繁は、東軍の徳川秀忠軍を上田城に迎え、寡兵を守って大軍の秀忠軍を足止めさせます。
秀忠軍は、これにより関が原の本戦に間に合わな
いという大失態を起こしてしまいます。
西軍の敗戦後、兄信之に免じて、死をまぬがれた
信繁と昌幸は、紀伊国九度山に配流になります。
14年後、徳川と豊臣に争いが生じると、豊臣か
らの招聘を受けて、大阪城に入城します。
大阪冬の陣が、始まると大阪城の最弱点である三
の丸南側に真田丸と呼ばれる出城を築き、徳川側の
先方隊に大打撃をあたえます。
翌年の大阪夏の陣では、茶臼山に陣取り、全軍赤
に備え徳川家康めがけて襲い掛かります、本陣に突
きいること三度、家康の馬印を引き倒すほどまで攻
め入ります。
信繁の凄まじさに、家康は自害を覚悟したといわ
れています。
しかし、圧倒的な兵力の前に信繁は、力尽き壮絶
な死を遂げました。
江戸時代になり、真田幸村として講談本なので真
田十勇士とともに名声があがり、真田日本一の兵と
いわれるようになりました。
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